シロヤギ塾の談話室
一緒に勉強しよう
強く生き抜くために
これはシロヤギ塾の根幹にある理念です。
えっ、良い高校、良い大学=偏差値の高い学校に受かる事が勉強の最終目的じゃないの?
そう思われる方も少なからずいらっしゃるかもしれません。
もしそうだとするなら、偏差値の高い学校に受からなければ、それまでにしてきた勉強は意味をもたないのでしょうか?
シロヤギ塾ではそれを最終目的とは考えていません。
勉強を通して得られる最も大切なものは学歴ではないのです。
また、良い学校に受からないのは単純に努力が足りないからだ、
そう思われてる方が一定数いらっしゃるのではないでしょうか?
これがスポーツ、例えばサッカーの世界であれば、
才能や経験年数が最高到達点に大きく影響すると理解
している方が多いと思いますが、
勉強では違うのでしょうか?
いいえ、勉強でもはっきりと影響します。
これまで読んできた文章量、丸暗記ではなく理解を重視した勉強をしてこれたか、幼少期の様々な経験により形成される才能など、これらがはっきりと影響します。
こういうと残酷に感じますか?
勉強は努力以外の部分も結果に大きく影響する、とは言わずに
「勉強は努力が全てで、やれば誰でもできるんだ!何でお前はあの子より出来ないんだ!」なんて
言ってしまう事で、子供達は自分は努力できない人間なんだ、と自信を大きく失くし、自身の価値が低いと思い込む方がむしろ残酷だと思うのは私だけでしょうか?
じゃあどうすればいいんだ!とこんな声が聞こえてきそうです。
答えはシンプルです。
勉強は社会を強く生き抜くためにやるものだ、と考えるのです。
科目別に言います。
国語はコミュニケーション能力で最も大切な「聞く力」を養うために勉強します。
数学は与えられた情報を整理する力、そして今自分が持っている知識を組み合わせて課題を解決する力を養うために勉強します。
英語は自分の可能性を広げるために勉強します。
これは、日本という母国だけで収まるのではなく、海外の知見(エンタメ含む)に触れる、海外とビジネスする、こういった事を可能にすることを指しています。
そうです、これらの事が勉強を通して学べればいいのです。
なぜこう言えるのか。
日常の会話や仕事の場で、偏差値の高い学校に出題されるような文章でやり取りしているでしょうか?
していないはずです。それはその必要がないからです。
ですから、最終的に偏差値が高い学校に行けなかったとしても、上で書いたような事が学べていれば、それだけで十分なのです。
偏差値を人の価値を決めるものさしとしてしまう風潮は、子供たちの人格形成に大きく影響を及ぼします。
偏差値が高くない自分は何をやっても無駄だ、
こう思ってしまうと、例え好きなことや向いてるかなと
思う事柄があっても立ち止まってしまうのです。
偏差値主義、学歴主義は子供たちのエネルギーを奪います。
偏差値が高くてもそうです。
何のために勉強してきたのかわからずに何となく偏差値が高くなってしまった子どもは、社会という荒波に飲まれた時に生き抜く事が困難になります。
まとめます。
勉強をしなくて良い、と言っていません。
勉強はしましょう。
でも偏差値で一喜一憂するのはやめましょう。
偏差値では人の価値は測れません。
勉強を通して得られるものを理解し、努力のやり方を学び、大人になって自分の興味ある事を見つけた時に全力で努力し、強く楽しく生き抜きましょう。
家庭教師のシロヤギ塾
清水 雅則